昭和五十七年九月五日 朝の御理解
御理解第六節
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけて おろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。
目には見えぬが、その目に見えぬ神様を実感していけれるようになる稽古が、信心だと 思いますね。目には見えない、それでもやはり神の中を分けて通りおるようなものじゃとおしゃっておられる。いわゆる神の実感なのですね。しかも、それはどこにいても、畑で、例えば肥をかけておっても、やはり神様の働きを受けてのいわゆるそこに神様おあしますという実感が出来てまいりまして、初めて信心が分かる。いや、信心が育っていくと思います。
おかげに眩惑されたら神様は分かりません。おかげを頂いた時だけ、はあ成る程神様じ ゃなあと、こうわかる。そのおかげというのは、いわば私共が言うそのおかげというのはね、特別なおかげをお願いして頂くというおかげは、そういつもいつも頂けるものじゃありません。人間の思うように、願い通りにおかげ下さるということはありません。ね。ですから、私は信心の徳というか、それによって頂くおかげというのは、願いじゃなくて願い以上のおかげの世界を私共は頂きたいのですね。
いわゆる願い以上ね、それには私共がお徳を受けなきゃなりませんけれども、目には見 えぬが神の中を通りおるようなものじゃと、私はいつもその事について申します事は、例えば朝露の中をですね、歩いて行くようなものじゃ、ね。そこの中を通ると、サラサラと音がするね。足元はじっくり朝露で濡れる、そういう実感ね。そこに、そういう神様を頂きたいです。
世界、神の広前は世界中であるぞと、そういうその、そうですというふうに漠然と頂く 神様ではなくてね、そこに生き生きとして、そこに神の声を聞き、神の姿を見るというような信心にならんと信心が育ちません。その為には、私はそういう神様を頂き現わしておる人達の信心をいよいよ頂かなければならんと思うね。
昨日、神愛会でしたが度々の事ですけども、いわゆるお取次の現場で御苦労下さってお る先生方のお話しですから、もう本当に生き生きとそこに神様を感じるようなお話しばかりでしたが。なかに、石動教会の宮田先生の発表を聞かしてもらいまして、ああ成る程そだなと思った。
合楽で、お話を頂いておると、もう本当にそうだとわかるというんですね。これこそ金 光大神のご信心だという事がわかると、こういうところがわかる間、わかっただけではおかげにならんと、それが最近ではね、心で感じる、身体で感じるという事を言っておられます。
いわば、心が、身体が受け付けない、頭で分かっただけではね。心で受け付け、身体で 受け付けるね、という発表を聞かせて頂いて、段々おかげを受けておられる様子を聞かせて貰いましたが、みんなが頭でお話を聞いてわかっておるというね。
ただ神の中を分けて通りおるようなものじゃという事は、いろんな道理から聞かせて貰 え、理屈から聞かして貰うとわかるんですね。けれども、その自分の心が受け付けてない、身体が受け付けてないところに、心に有難いものが育たなければ、身体でいうならば修行させて頂く喜びも感じる事ができない。頭で分かっただけではね。
天地金乃神は、世界中が広前とそれが分かっただけではね、だめだ。神の中を分けて通 りおるようなものじゃという実感なんです。その実感を私共が頂かせて頂く為にね、本気でね、いわば心で、それから身体でそれを受け付けるおかげを頂かなければならん。これはそうだと聞いて、なら、しようと思っただけで出来るこっちゃない。最後に、その話しを聞いて若先生が申しておりましたが、その為にはいよいよ心の、いわゆる調子をよくしとかなきゃならんという意味の事を申しておりましたが、いわゆるコンディションね。ところが、コンディションだけではいけないように思う。ただ、調子が、心が良い、そんなにいつもかつも心の調子が良いという事はありません。問題は、ここにやはり一心発起しなければだめだという事。
おかげを頂こうじゃなくて、信心を頂こう。合楽でこうやって頂いておる御比礼という ものがです。その元が、なら合楽の大坪の信心によるというその、ならば、その信心を頂こうね。それは、いうなら見習い聞き習いで、それを体得しよう、本気で体得しよう、ね。たとえば、あの歌舞伎役者なんかの踊りの師匠は、歌舞伎役者には一回しか教えないそうですね。後は、もう見て取らなければいけない。いかに歌舞伎役者そのものがね、その本気で師匠の踊りを見ておるか、聞いておるかという事がわかります。何回も何回も手をとって教えるのは、素人さんに教える時だという。いうならば道楽で、いうならば稽古しようという人達の場合には、手取り足取りもしなければ覚えもせんし、また習い手もない。けれども、玄人さんであるいわゆる歌舞伎役者なんかの場合は、もう見て取るんですね。
私は久留米の市民会館で、あの勘三郎達親子が来た事がありました。夏、舞踊なんかが 中心でしたが、まだ勘三郎が小学校の五、六年生位でした。それでもう立派な踊りを踊りましたが、私は一番前で見るんですから、その済んだら楽屋の方から走って出て来てから、私のここのすぐ横に座ってから見る子供がありますもん。初めは気が付かなかった。いわゆる、あの勘九郎でした。も、そのお父さんの踊っておる踊りを、もう一番前のところで、芯から見てるです。
はあ、ね、歌舞伎役者には一回しか教えないね、芸子さんやら素人さんにはいうならば 手を取り足を取りして教えるそうですけれどもね、いかに、その歌舞伎役者がそれをその芸を本気で覚えなければ、も、命のように大事にしておるという事が、その子供の時からそういう一つの意気込みというものがね、大変感心した事があります。ね。
だから、ここでですね。例えば修行、例えばしておる人達なんか、私のいうならば信心 を見ておる聞いておるのですから、それだけで別に手取り足とりしなくても、私の信心をいうならば体得する事が出来るのです。ね。ところが、おかげに眩惑されておるとそれが言うて聞かしても言うて聞かしてもわからん、いやわからんで、頭だけでわかっとるけれども身体が受け付けない、心が受け付けない。宮田先生は、その事を言っていましたね。この頃は、、いわゆる心で受け付け身体で受け付ける。いうなら、本気でやる気になった。本気で、合楽理念の実験実証をいわば楽しみに信心が出来ると、こういう。私、本当にそれを聞いてから成る程、心が身体が受け付けなければだめだと言う事。
その時には、ただ調子が良い、何か有難く御理解が入ってくる時もありゃ、入ってこん 時もあるといったようなもんじゃない。ただ頭で分かるだけの事ね。本気で合楽の信心を体得しようと思ったら、いわば合楽のいうなら信心を本当に見覚え聞き覚えでも出けるようなそういう一心発起をしなければだめだと、こうね。
神の中を分けて通りおるようなものじゃね、世界中が神の広前であると分かっただけで は、おかげにならんね。世界中どこにおっても天地金乃神様であるというだけではなくて、ま、申しますようにね、それこそ朝露を分けてその道を通っておるように、その朝露で足元が濡れるようなその実感がね、いわゆる神様の実感。そういう実感が出てくるようなおかげを頂く為には、はあ自分は身体で受け付けてない、心で受け付けてない頭でわかりよるだけ、ね。
それは、どこにあるかというと、ただおかげが頂きたいばかりに御参りをして、お話を 頂いてそしてそのおかげを頂こうという、そのおかげが目の前にブラ下がっておる間はね、本当に身体がいう事をきかん。ちょこっとおかげを頂いたら、もうそれでヤレヤレと腰掛けてしまう、ね。
皆さん、一つ心で身体で、いうならば合楽の教えがね、受け付けるような体制をとらな いけんね。それには、やはり信心を頂こうね、本気で私は一心発起しなければ出て来ない。そういう迫力も出てこないね。
昨日は、私もう三代金光様のお若い時のお話をした事でしたけども、確かにそうだと、 三代金光様がお若い時、まだ死霊生霊を拝んでおられる時分ね、お賽銭箱やらお供え物の回りをグルグル回っておられる先生がありますからそれはどなただろうかと思ったら、оо教会のоо先生でした。そういう先生は、おかげ頂けませんとおしゃったそうです。いわゆるおかげ、お賽銭、あああげん御参りが多かけんお賽銭も多かろ、御供えが多かろちいう事に、いうなら事の先生はおかげを頂きません。御結界の周囲をグルグル回って、私の着物に袖にこう触れる生霊があった。どこの先生かと思ったらоо教会の先生でした。やっぱり、そういう先生はお徳を受けられます。おかげを受けられますとおしゃったね。だから、おかげに眩惑された、これでお道の教師であっても〔そのような〕教師では教 会に御比礼が立ちません。いうなら、ここでも私のですね、私の本当の信心に触れよう、それを本気で見極めたり聞き極め、見聞きしながらね、それを心で頂いてそれを身体で行じようというところから、宮田先生じゃないけれども生き生きした御比礼をそこに感ずる事が出来ると、こう言われる。今までは頭で分かっただけであった。心が受け付けなかった。身体が受け付けなかった。そこに、なら宮田先生があんな遠方から、やっぱり御参拝になる。その意気がね、そういう身体で受け付ける心で受け付けるようになったんだと思います、ね。
どうでも、私はね神の中を分けて通りおるようなもんだという事が分かっただけでなく てね、そこに通っておれば、裾が濡れる、サワサワと音がするね、そういう私は神様を頂きたいと思うですね。 「どうぞ」